椋鳥ですか?

 84歳の母にバラの鉢植えを贈り(送り)ました。「立派なバラをありがとう」と、お礼の電話がかかってきました。本当に喜んでいるのだろうか。花より団子なんです。母と妹は。それでも声の調子には確かに嬉しそうな響きは感じられます。やはり女性なのかな、そう思うと良かったです。何しろ花などプレゼントしたのは子供の頃のカーネーション以来ですから。

 まだ母の日ではありませんが、母のことを考えていると、やはり昔のことが思い出されます。小さい子が泣きわめいているのを見ると、「いったいどんな躾をしているのか」と腹立たしく眺めます。泣けば親は折れる、自分の望みは叶う。そういう風に学習しているのではないか。なぜなら無駄なことはしないはずだからです。犬猫と同じです。

 僕はどうだったでしょうか。自分の息子を思い出しても、僕もたぶん泣きわめく方ではなかったように思います。泣いても無駄だから。たぶんそうでしょう。

 「欲しいものがあったら、しばらく我慢して考えてごらん。何日かしても欲しかったら、それは必要なもの。そうでなかったらいらない物だね」。母には、そう教えられていました。もっとも買ってやりたくても、経済的に許さなかったということが最大の理由だったとは思いますが。

 「そうなのかな。そんなはずあるまい」と幼心に思っていました。しかし、何日かすると、ほとんどの物は欲しいと思わなくなっている。というより、むしろ忘れてしまっている。一過性の熱なんでしょうね。親は、というか大人はそれを分かっている。

 子供の頃は、すぐ欲しくなりました。何でも欲しくなりました。おもちゃでも食べ物でも飲み物でも。今は物欲が減少してきていますね。年取ってきて、そう思います。それでも生に対する固執みたいなものは、年をとって増していくというようなことは聞きます。

 本当にそうなのかな。若い頃は死が異常に恐ろしかったし、絶対に死にたくなかった。親が死んだら気が狂うとも思っていました。今はそうでもないと言ったら問題ですが、父が7年前に亡くなった時には意外と落ち着いていました。逆に年を経るにしたがって、父への感謝の気持ちが増しています。

 とりとめなくなりました。花を贈って考えたこと。以上です。では、また。ペレレイ、ペレレイ。