「釘付け」という表現で思い出すのは、大学生の頃のこと。東京駅八重洲口にあったブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)で藤島武二の「黒扇」という名画を見た時のことです。

 文字通り「釘付け」になったのです。その絵の前で動くことができず、しばらく呆然と食い入るように見つめ続けていました。今見ても、たぶん、それほどの感銘は受けないと思います。40数年前の感性豊かだった青年には、衝撃的な美人画でした。

 つまり、「釘付け」という言葉に悪い印象はありませんでした。どちらかと言えば、先の例のようなプラス方向の意味合いを考えていました。

 ところが、遠藤周作の「イエスの生涯」を読んでいて、キリストの磔刑の場面の描写で愕然としました。十字架のはりつけです。203ページ以降から抜粋します。「(前略、イエスは)腕を開いて自らの運んできた十字架の横木の上に仰むけになり、手をその十字架に釘うたれた。この釘づけがすんだあとロープで吊りあげられる。そして最後に足に二本の釘を打ちこまれる(後略)」

 なんと、釘で足と手を固定されたのです。ロープではなく。イエスは意識を麻痺させるための葡萄酒も拒絶し、息をひきとったのが3時間後といいます。3時間の苦痛とはいかばかりだったことか。ここを読んで空恐ろしくなりました。言語に絶しますね。

 広辞苑に、死刑を意味する説明はありません。①物を固着させる②物事を動かないようにする、動きのとれないようにする、などとあります。死刑につながる表現ではありません。それでも、キリストの最期を思うと、ちょっと気持ち悪いですね、恐ろしいですよね。

 処刑に楽なものなどないでしょうが、人を殺すとはなんと残酷なことでしょう。それが罪のない人であればなおさらのこと、です。僕はキリスト教徒ではありませんが、なぜか最近、イエスのことも気になっております。何でだろう。不思議です。

 いつの日か、分かるのかな。分からなくてもいいけど。ま、気長に行こうっと。では、また。ペレレイ、ペレレイ。