ネットの暴力

悲しいことがありました。伊藤惠理が出版した「ペレレイ」(自由国民社)がアマゾンの本コーナーにおいて、カスタマーレビューが公開されているのですが、概ね肯定的な内容の中、ひとつ批判的なものがありました。

いえ批判ならいいのです。明らかな誹謗中傷の類でした。もちろん星は1個です。出版社からは、必ず、その手合いのものは出てくると聞いていました。ですが高をくくっていたのです。なぜなら無名で、まだ売れてもいないのですから。批判は権力に向かってするものと思っていたからです。新聞記者の感覚ではそうです。

溶岩

甘かったのですね。世間の見方が。無力の人の足を引っ張って、何が楽しいのでしょうか?そもそも疑問なのは、本を買うという行為は、仕事ではなく個人的な欲求からとするならば、多分に好意的な気持ちがあるから選ぶと思います。百歩譲って間違って買ってしまったのなら、そしてそれほどに許せない内容なら途中で、いや最初の方で読むのを止めて投げ出せばいい。僕ならそうします。

どうして最後まで読めるのでしょうか? 当然、個人的に恨みがあると考えるのが普通です。何か悪いところを見つけようという目を感じます。それほどの敵愾心があるとしても、もっと他の方法で対抗する方法はないのでしょうか。

こちらに抵抗する術はありません。それこそ、黙っているしかないのです。暗い気持ちを引きずりながら…。これって予告なしの不意打ち、テロと同じような気がします。ロシアの駐トルコ大使を背後から銃撃したトルコ警官の行為と似たようなものと言ったら言い過ぎでしょうが、ズルいやり口ではあります。

ほかの人が納得できる正当な批評は、たとえマイナスのコメントでも、しっかりと受け止めないといけません。そういう冷静な目で見た分析された批評は、今後の糧にもなるでしょうし、素直に受け入れる度量も必要です。ただ小説家はよく「評論」は読まないといいます。おおむね悪意に近い内容だからでしょう。役にも立たないからでしょう。でも評論する立場からすれば、悪口の方がおもしろいに決まっています。確かに歯の浮くようなお世辞を読みたい人はいませんよね。

ゴシップだってそうです。美談よりトラブルの方が面白い。ワイドショーや週刊誌が取り上げるのも、取り上げる人の負の面が多い。ただしターゲットは有名な人です。無名の人を揶揄しても、誰も見ないし買わない。お金を使ってまでやる意味はない。

ネットの投稿は誰でも、いつでも、タダで簡単にできてしまうところが困ったところです。チェック機能などない。ネット世界にはもちろん便利でいい面が多いと思います。ただし面と向かっていえる勇気のない人が、罵倒する武器として使うなら、読まされる人だけでなく、たぶん書いた人も心がすさんでいくと思います。どうか広い心で、温かい目で、他人を見ましょう。それでないと自分にも広い心や温かい目は降り注いでこないでしょう。

「世の中に愛と光を」。伊藤惠理のモットーです。

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