疾きこと風のごとし

 歩くのが遅い人がいます。女の人ならいいですが、男だとどうでしょうか。僕は目の前で働き盛りの青年がチンタラ歩いているとイライラしてしまいます。年寄りや幼い子なら別ですがね。これって男女差別ですか(笑)

 歩くスピードが速い人は、仕事をバリバリやるイメージです。逆の人には活力を感じません。

 なんでもスピード感を持って対処することが肝要。先延ばしはよくありません。思い立ったが吉日。やれることはバンバンやっていく。それが僕の信条でもあります。

 惠理先生がこのところしきりに、風の時代に入りました。と言っていますね。昨年12月22日に「地の時代」から「風の時代」に入ったそうです。なんだかわからないけどスピード感を貴ぶ僕にはワクワクします。疾風怒濤です。

 そういえば最近、気になってる戦国武将の一人に武田信玄がいます。僕は記者時代、山梨支局にもいたので多少の縁はあります。4月から二重生活をする諏訪郡もかつては信玄が支配したこともあるので縁を感じます。

 信玄の軍旗に書かれていた「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略して言うのが風林火山。風があります。出所は「孫子」で、兵法のひとつだそうです。「疾きことのごとし」、「しずかなることのごとし」、「侵掠すること火のごとし」、「動かざること山のごとし」と読み下すのが一般的。

 動かざること山のごとし、は良く聞くと思います。僕はさらに「疾きことのごとし」が好きです。しかも漢字がいい。疾し! 気持ちいいですね。いかにも速そうです。

 なんでものんびりしていてはいけません。置いて行かれます。人に、時代に、宇宙に(笑) 惠理先生は早いですよ。やることなすこと。男前です。やはりできる人は早いんです。

 さあ乗り遅れないように、一気に進みましょう。素晴らしいユートピアに向かって。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

 

久し振りにスピライフです

 霊性を感じるささやかなできごとがありました。自転車を一時預けようと伊勢佐木モール入り口付近、根岸線のガード下にある駐輪場に出向いたところ、「満車」となっていました。見渡すと確かにぎっしり寸分の隙もなく自転車とバイクが止まっています。

 惠理先生と「ダメだね」と諦めたところ、入り口に佇む僕たちの脇を女性が入って行きました。これは、もしや、です。すると事務所にチケットを出し、自転車を引き揚げていくではありませんか。先生と顔を見合わせました。

 もちろん、彼女が空けたスペースに無事駐車できました。小さな幸運です。昔ならお天道様に感謝ですね。宇宙の配慮を感じました。見てくれている、みたいな厳かな感覚です。少し大げさですが。でも「ただの偶然だろ」で片付けては楽しくありません。

 その前に気落ちすることがあったのです。愛猫マリンに朝食を与えようと思って皿を見ると、前夜の食事を大量に残していました。減った分を少し足して食べさせようとしても逃げてしまいます。、糖尿病のインシュリン注射は空腹では打てないので、無理やり乾燥フード4粒を飲み込ませてから注射を済ませ病院に行きました。

 1時間半後、検査結果を見たら血糖値が高い。半日預けて血糖値の推移、エコーなどを受けることになりました。心配で二人とも黙りがちだったところ、先の神様からの贈り物があったわけです。

 それだけのことですが、嬉しかったですね。最近、惠理先生とよく話すのが「守られている」「導かれている」という思いです。新聞記者時代は、裏取りを慎重にした上で記事化していた現実的な僕としては、変われば変わるもんです。

 スピリチュアルといえば、実に怪しげな商売をしている方が最近とても多いように思います。もしかしてコロナ騒動が、淘汰を促しているのかなという思いにもなります。本物だけが残る時代です。これから世の中はどうなっていくのか。不安にならず、楽しみに生きていきたいですね。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

逆転があるから人生は面白い

 アンジャッシュの児嶋一哉に感心しました。

 朝の情報番組を観ていたら、ヨガ歴10年ということを知りました。人は見かけによりません。実践ではMC加藤浩次がヨレヨレになっている横で、呼吸は乱れず涼しい顔。加藤もしきりに感心していました。

 アンジャッシュといえば渡部建が不倫騒動でテレビから姿を消しています。コンビで活躍している時は、渡部が目立ち、単独でもグルメ王としてブレークしていました。

 児島は冴えない相方で、馬鹿にされるキャラでした。それが今や消えるどころかドラマにも出演し、あらゆる番組に引っ張りだこです。地味だった男の大逆転です。

 それで思い起こすのがピース。やはり綾部祐二がイケメンキャラで熟女殺しの話題もあって圧倒的な存在感を示していました。一方で又吉直樹は暗くてまったくの引き立て役でした。

 ところが芥川賞を受賞するという驚天動地の偉業を成し遂げ、こちらも大逆転。一躍、大先生となり、綾部はなぜかニューヨークへ単身で渡ってしまいました。今の様子はほとんど伝わってきません。

 この教訓はなんでしょう。地味でも誠実にコツコツやっていれば、いつか花開くことがある、という話でしょうか。

 でも本当にそう思います。自分を信じて、諦めずに、やるべきことをやり続ける。それでいいと思います。きっと、いいことがあります。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

いたるところで分断です

 「名前はなんて言うんだ」とコンビニの入り口から店内に向かって大きな声を出している年配男性がいました。ちょうど通り過ぎる時に店内を覗くと、きつい口調と表情で「マスクをしてないから」と手で追い払う仕草をしている男性店員がいました。

 どっちもどっちなのかな。マスクに効果があるのかどうかはさておき、みんながしている中ではやはりしていない方が不利。しかし店員の態度もまた極端だと思いました。

 朝のNHKニュースでは、防じんマスクをして患者にあいさつをした医師が解雇され、医療機関を訴えてい裁判で、さいたま地裁が解雇を不当とし、2000万円の支払いを命じたと報道していました。医療機関の言い分は、防じんマスクとゴム手袋をして患者の不安を引き起こした上、職場の秩序を乱し、甚大な被害を及ぼしたというものです。

 これもどっちもどっちという気がいたします。防じんマスクはちょっと行き過ぎじゃないかと思いますし、解雇しちゃうのもどうなかな、と感じます。

 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が「コロナがどういう形だろうと必ずやる」と発言したことに対し、世界のメディアは「とんちんかん」などと批判が相次いでいるという問題。

 森さんの、出たい人、見たい人の気持ちを慮る姿勢はわかりますが、やはり言い方が強すぎますよね。

 すべて、どちらも極端です。だから分断してしまうのではないでしょうか。

 米国のトランプ共和党とバイデン民主党の戦いから、分断という言葉がクローズアップされました。それは世界中、日本の片隅にまで広がっている感じです。世の中が、どんどんギスギスして行きます。寂しいですね。悲しいですね。どうしたらいいのでしょうか。

 コロナで何が起きているのか。誰が得をするのか。誰でも幸せに生きる権利がある。それを侵害することは許されない。ただいつの世も、悪人はいなくなりません。せめて自分は、そういう流れの中でも負けずに、人生を楽しんで行きたいと思います。一人でも多くそうあってほしい。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

立春、そして言葉遊び、あー勘違い

 今年は2月2日が124年ぶりの節分で、3日が立春でした。

「りっしゅん」。美しい言葉、発音ですね。春が来る、そんな浮き浮きする高揚感があります。立夏、立春、立冬もありますが、立春がなんといっても一押しです。

 「春分の日」というのもあります。子供の頃、これを「新聞の日」と思っていました。その思いが、新聞記者への道を切り開きました、というのはもちろん嘘ですが。

 似ようなものがいっぱいありました。童謡「故郷(ふるさと)」の歌詞の中に「うさぎ 追いし かの山」が出てきます。これを「うさぎ美味し」と勘違いし、へー、うさぎは美味しいんだと思っていたこと。

 「たきび」の中には、「北風ぴーぷー」がありますが、けっこう長い間「北風ぴゅーぴゅー」と思い続けていました。本当の歌詞を知った時「ぴーぷーなんて擬音があるかい! 普通ぴゅーぴゅーだろうが」と一人突っ込んでいました。

 さらに。「どんぐりころころ」には「どんぐりころころ どんぶりこ」とあります。これを「ごんぐりころころ どんぐりこ」と思っていました。次に「お池にはまって さあ大変」という歌詞が続くので、理屈で言えばこれは「どんぶりこ」ですよね。僕の負けー(笑)

 向田邦子さんは日航機墜落事故で亡くなって、今年が没後40年。エッセイの中に「眠る杯」があります。「荒城の月」の「めぐる杯かげさして」を「眠る杯」と少女時代に勘違いしていた回想です。向田さんほどの語感、博識を持った人でも子供時代は同じなんだなと、思ったことがありました。

 成長するにつれ、言葉の語感やらリズムやら、言葉遊びが好きになりました。好きなリズムは「パルメジャーノ レッジャーノ」です。人にあだ名をつけて、惠理先生とひっそり呼び合ったりもしています。

 フランス語も美しいですが、日本語も大好きです。そして遊び心も大好きです。子供の頃は何でも遊びにしてしまうじゃないですか。言葉も同じです。成長しても僕はまったく変わらない。その気持ちはいつまでも持ち続けていたいな、と思います。

 遊び心。いいですね。ペレレイ、ペレレイ。では、また。

僕って何者ですかね? マジで

 自分のことを実は自分が一番分かっていないのではないか、なんて今更ながら思いました。青年期に考えることですわなぁ。

 小さい頃かな、録音された自分の声を初めて聴いた時、こんな声なんだと不思議な感覚を味わったことはありませんか。僕は違和感を感じました。顔の中で反響している声を内側で聴いているのと「差」があるのでしょう。

 写真写りがいいとか、悪いとか自分で思うのも同じような側面があるのかもしれません。他人から見れば、お前はそう言うけど、その写真は立派にお前だよと思いませんか。

 発展させて外見以外のことにも通じるかもしれません。妻や友人にバッサリと痛いところを指摘されると、僕の場合は冷静さを一瞬にして失い、激高してしまうわけです。

 鏡で見る自分と他人が見ている僕は違う。そういう一歩引いた理解ができるなら、無用な喧嘩がなくなるのかもしれないと、124年ぶりの2月2日の節分に思い至った次第です。

 他人の僕についての言及、それを冷静に受け止めてみる。他人が理解している自分と自分が勝手に思い描いている理想の自画像の間には大きな溝がある(怖っ)そう思えるようになりました。62歳にもなって。あー青臭っ。でも、ま、いいか。気づいた時、決して遅いということもなかろう。何しろまだ人生の半分なのだから(笑)

 では、また。ペレレイ、ペレレイ。惠理先生のペレレイヒーリングを受けて本当の自分を見っけてね!

逆・断捨離です!

 断捨離を勧める人が多いですね。無駄なものは捨てる。縛られない。物にしろ、考え方にしろ、いいことだと思います。

 ところが、最近の事。僕は捨てるのではなく、拾ってしまったのです。マンションのクリーンステーション、つまりゴミ置き場ですが、そこに古本が置いてありました。本が大好きな僕としては無視できません。どんな本か気になります。見ると、富樫倫太郎の「早雲の軍配師」「信玄の軍配師」「謙信の軍配師」です。読んだことのない作家だし、僕はあまり歴史ものは読みません。せいぜい司馬遼太郎をほんの少していど。ただ、なぜか信玄のことが気になっていたのです。甲府支局に2年いたこともあります。今度、第2の拠点となる長野県原村は諏訪郡で、信玄がかつて支配した地域でもあります。

 信玄だけ読んでみようかと1冊抜いて持ち帰りました。しかし、ほかの2冊も気になり戻って回収しました。出版の順番は早雲、信玄、謙信ですが、僕は気になる信玄から読み、謙信から早雲に戻り3冊とも読んでしまいました。文庫本では上下巻ですから全6巻のボリューム。それをあっという間にむさぼり読んでしまったのです。

 そもそもゴミ置き場から持ち帰ることも異例中の特例なら、すべて読み切ってしまうとは恐れ入りました。もちろん得をした気持ちになりました。

 この流れなら次は秀吉か、家康ですか? すると早雲を読み終えた翌日、ゴミ置き場に行くと隆慶一郎の「影武者家康」が捨てられていました! 以前読んだことのある本で、好きな作家ですが、再読したくなりました。文庫本なら3巻のボリュームです。

 不思議なんです、最近。意識したことが現実化する。先だっては漬物石が足りないと考えていたところ、その代替となるダンベルペレートがいくつかゴミ置き場にありました。ゴミばかり漁っているわけではありませんよ。プレートは持ち帰ったものの、さる事情から戻しに行きました(笑)

 このところ不思議なシンクロが連続しています。年末年始に会えなかった親友とは、驚きの遭遇をします。原村の棟上げからの帰途、甲府駅に滑り込んだ特急あずさの車窓からホームを見ると、その親友が立っていました。僕と目が合い驚愕の表情を浮かべています。僕ものけぞりました。

 突然、車内で惠理先生と3人で祝杯です。ソーシャルディスタンスで(笑=たんに通路をはんだだけです)

 何でしょう? 惠理先生といると宇宙の不思議な流れの中にいるような気がします。原村とのデュアルライフで、さらに奇跡が生まれていくような予感が湧いてきております。楽しいですね。

 惠理先生のペレレイヒーリングも進化を遂げ、さらなる高みへと上昇しているのを感じます。パワーアップ、何かに引き寄せられている。宇宙か、縄文のエネルギーか? いやはや、驚きを通り越してしまって、もはや自然に受け止めている僕がいます。いやあ痛快、痛快。では、また。

旬のものは格別です!

 寒ブリの季節です。ぶりしゃぶは美味いですよね。

 いまブリが旬であることぐらいは知っていますが、寿司ネタになると恥ずかしながら分かりません。ほぼすべてのネタが、ほぼ通年食べることができるからだと思います。養殖ものがあるからでしょうね。

 野菜も同じです。新じゃが、新玉(ねぎ)はスーパーでも、ほかのものと区別して配置してくれているので分かります。味が違うことも明確です。ところが普通に大根、にんじん、白菜、きゅうり等々、いつが旬なのかよく分かりません。

 旬のものには力がある、と恵理先生はよく言っています。無農薬、自然農法にもこだわっていますが、それとともに旬のものを考えながら献立を考えてくれたりします。

 オーガニックに関しては最近、元町にBio c’ Bon(ビオセボン)が開店したので、とても便利です。最初の頃は割高に感じていましたが、このところ農薬使用のものと目立った価格差ではなくなってきているように思います。

 旬のもの、そしてオーガニックのものは本物ということが言えるかと思います。

 ペレレイヒーリングは惠理先生に降りてきたのですが、16年春にデビューしブレークしました。本も自由国民社から出していただきました。それからちょうど5年目の春を迎え、第2次ブームの予感がいたします。今再び「旬」になる、そう思います。4月から縄文のエネルギーに満ちた長野県原村を第2の拠点とします。そこでまた、何かが生まれる。僕はそう確信しております。

 ぜひぜひ、ペレレイヒーリングの力を感じてみてください。本物ですよ。では、また。

男の顔は成長する

 イケメンの続編になるかな。

 田中将大投手がヤンキースを退団し、古巣楽天に10年ぶり復帰することが決まりました。2013年に開幕から24連勝無敗で初の日本一に貢献して以来となります。震災から10年目でもあります。

 駒大苫小牧時代は、3年夏の甲子園決勝で早実のハンカチ王子こと斎藤佑樹に敗れました。ハンカチ王子はルックスも爽やかで、マー君は自分が「ヒール(悪役)だった」というようなことを話していました。

 たしかにいかつい顔で女性人気は難しかったかもしれませんね。しかしプロ入り後は、活躍できない斎藤佑樹とは比べるべくもないほどの差となりました。名門ヤンキースで7年連続2ケタ勝利は大したものです。

 顔立ちも見栄えがよくなりました。男の場合は活躍することによって自信が顔つきに現れるのでしょう。マー君はそれほど明瞭な変化はありませんが、かつてのKKこと桑田と清原、ゴジラこと松井秀喜は、初めて見た時のインパクトは強烈でしたよね。なぜかは言いません。ところが活躍を重ねるごとにいい顔になって行った。ことに内面も素晴らしい松井秀喜は別人に生まれ変わった。

 やはり見られることもあるのでしょう。意識はしますよね。特に女優はそうでしょう。人に見られ続けて美しさに磨きがかかっていく。褒められれば、さらに綺麗になる。

 造作は親からいただいたもので、整形しない限りは変わりません。変えることができるのは、自信を持つことで顔を成長させることだと思います。人に見られるという環境を作ることは仕事によって難しいので、まず自分の心身を磨いていくことでしょう。

 内面から美しくしてくれるのは惠理先生のペレレイヒーリング。先生とお話をして内面をスッキリさせ、その後ヒーリングを受ける。ビフォーアフターで変身していますよ。是非どうぞ。ペレレイ、ペレレイ。では、また。

イケメンとは何ぞや

 昔はハンサムとか言っていましたが、現代のイケメンはそれとはニュアンスが違うんでしょうね。美男子とも違うのでしょうか。

 新聞記者の現役時代、プロ野球選手を取材していました。いつ頃からでしょうか。うちの出版社から出している雑誌でもイケメン人気ランキングのような企画が流行り始めたのは。

 どちらが先か分かりませんが、カープ女子のような女性野球ファンが増えて行ったことは喜ばしい限り。しかし、リストアップされている人たちを見て、ちょっと待てよ、と思わざるを得ない選手が結構いるわけです。

 なんでしょう。雰囲気イケメンでしょうか。スタイル、服装、物腰すべてのトータルでイケメンというようです。僕は、顔立ちだけで判断するものと考えていたので、かなり抵抗感がありました。今でもありますが…。

 具体名を出すと好みの問題である上に、無意味な反感を招くのも本意ではないので伏せますが、俳優でもそうです。その人たちは昔の定義で言えば、性格俳優だろうと思うしかないような顔立ちでも、簡単にイケメンのカテゴリーに入っている。ずいぶんハードルが低いなと感じます。

 写真部のデスクをしていた頃、人物写真を撮るのが抜群にうまい部員がいました。動いている写真は誰が撮っても意外と迫力がある。タイミングさえ合えば、ですが。ところが動いていない人や物に命を吹き込むのは難しい。例えば、野球の様に動いてきたボールを打つのは難しい反面、当たると実は飛ぶ。ところが止まっているボールを遠くに飛ばすゴルフは簡単そうで本当は難しいのと似ています。

 その部員がジャニーズの滝沢秀明の若かりし頃、「あんなに綺麗な人を撮ったことありません」と言いました。男に対して「綺麗な人」ですよ。女性を称える表現ですが、僕は納得できました。

 時代が変わったといえばそれまでですが、女性に関して言えば、性格女優を美人とは表現していないように思います。やはり誰もが認める美形のみに最大の称号を与えているように思います。

 違うのかな。男性は評価が甘くて女性には厳しいと僕には思える。不公平です。何でだろう。女性の社会進出が進んでいますが、実は最後の関門に「見た目」の評価があるとしたら、まだまだ開かれていないかもしれませんね。

 でも惠理先生のヒーリングを受けると、内面から美しく変化するので、まったく違う「美人」に生まれ変わります。受ける前と後を何人も見てきましたが、不思議なほどです。ぜひ、どうぞ。ペレレイ、ペレレイ。では、また。