ひとりごと

キャッチコピーがスゴい

 スゴいシリーズですね。

 新聞の折り込み広告を眺めていたら、「面倒見の良い塾 〇〇ゼミナール」というコピーが目に入り、思わずのけぞって笑ってしまいました。

 面倒見の悪い塾ってあるんかい! って突っ込みたくなります。当たり前でしょ。でも当たり前を臆面もなくズバッとストレートに提示するから、印象に残ります。微笑ましいほどに。

 キャッチとは「つかむ、とらえる」ですよね。キャッチーとなると発展的に「人の心をとらえる、覚えやすい」になる。

 キャッチコピーは「覚えやすい原稿」です。CMなどの売り文句です。昔「禁煙パイポ」に「私はコレで会社をやめました」と冴えない中年男性が小指を立てて見つめるCMがありました。笑いました。覚えている方は年配かな。

 当たり前といえばセブンイレブンには「あいてて、よかった」があります。サンクスは「すぐ、そこ」です。でも、この当たり前がいいんです。当たり前をズバッと表現しきるのは至難の業です。だから面白い。

 それにしても、面倒見の良い塾です。改めて凄いです。考えようによっては、そう言わなければならない雰囲気があるのでしょう。つまり親身さが足りない、と感じている親御さんが多く、上記の〇〇ゼミナールは、そこに訴えかけた。

 折込チラシを裏返すと、そこには『面倒見の良い理由「わからない」を大切にします』とあります。うーん、さらに凄い。中学生の頃を思い出します。分からないことが恥ずかしく、先生やみんなの前では誤魔化していました。ところが一人、分からないと分かるまでいつまでも「分かりません」と意思表示をしている子がいました。その子は進学校に合格しました。

 とても勉強になった。当たり前のことを当たり前にやる。そのことをも、この〇〇ゼミナールのコピーは伝えてくれています。

 では、また。ペレレイ、ペレレイ。

失言する人って…

 失言する人って、どんな人なんでしょうかね。

 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(元首相)が、女性蔑視発言をめぐり、ついに辞任の意向を固めたようですね。

 元首相ですよ。肩書は立派な方じゃないですか。どうして失言を何度も何度も懲りずに繰り返せるのでしょうか。ひとつには表に出ない部分では許されてきたため、感覚が麻痺しているのでしょう。その蓄積から表舞台でも、つい漏らしてしまう、というのが僕の推測です。

 なぜ政治家に失言する人が多いのでしょうか。学歴やら経歴やら大層な方々ばかりです。でも頭が悪いとしか思えません。つまり頭の良し悪しは学歴にはないということです。

 僕の息子の学力は、まあ言いにくいし、かわいそうですが、それほどあった方ではなかった。しかし、彼に言ったことを覚えています。「お前は頭がいいんだよ。なぜかというと人の気持ちがわかるからだ。それが頭がいいということ。社会で生きていくために一番必要なことがそれだよ」と。

 超一流大学を出ても、仕事ができない、要領の悪い人は大勢いる。受験勉強は「技術」ですから、体得すればいいだけ。世の中を生きて行く上での応用は効かない。受験科目に「人の心」はないからです。

 僕は空気が読めないと言われます。これもつまり、頭が悪いということ。かろうじて救われているのは、小心者だからかもしれません。

 政治家は虚勢で勝負していますからね。実るほど首(こうべ)を上げるタイプ。で、人の気持ちを顧みず、足元が見えず、同じ失敗を繰り返す。それでもある程度のミスであれば、権力という傘が守ってくれます。

 今回の森発言は度を越したということでしょう。でも彼は懲りないと思います。とても幸せな人だと思います。一度てっぺんを獲ってしまうと、セーフガードがあるのでしょう。そんな偽物が横行する世界から、本物だけが楽しく生きて行かれる世の中に早く移行してほしいと切に願っています。

 では、また。ペレレイ、ペレレイ。

日本発、世界の〇〇

 我が家の窓から見える横浜共立学園に在学していた作家、柳美里(ユウ・ミリ)さんが昨年末、全米図書賞(翻訳部門)を『JR上野駅公園口』で受賞しました。これは2018年に、ドイツ在住の多和田葉子さんも『献灯使』で受賞しています。女性が頑張っていますね。

 世界に出ていくのに、最も難しいのが文学かなと思っていました。日本語で書かれたもので世界中の人に読んでもらうのはハードルが高い。そう思っていたので、嬉しいです。

 世界の〇〇といえば、僕の世代では野球の王貞治さん、指揮者の小澤征爾さんです。王さんは世界最多の868本のホームランを放ちました。ただ王さんは複雑だったようです。日本の球場が狭く、大リーグに比べてレベルが低いことを分かっていたからです。それでも日本中が熱狂しているので、無粋なことは言わず、合わせてくれていたように思います。

 今ではイチローという文句なしのトッププレーヤーが誕生しましたが、やはり世界の壁は高かった。周りを海に囲まれた島国と言う地理的条件もあり、海外に進出するにはそれなりに飛び越えなければならいハードルはあったと思います。

 それが最近、壁が薄くなったのか、低くなったのか、どんどん世界に飛び出す日本人が増えてきたなと感じます。素晴らしいことです。

 日本という狭い場所に囚われることなく、地球規模の視点、行動ができる時代になってきたのかなと思います。日本人は遠慮がちですが、堂々とすればいい。謙虚は大事ですが、日本人としての誇りを持って、バンバン世界に発信していける人がもっともっと増えればいいと思います。

 惠理先生もデッカイ希望を持っています。世の中に愛と光を。原村からも愛と光を届けるべく始動開始です。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

疾きこと風のごとし

 歩くのが遅い人がいます。女の人ならいいですが、男だとどうでしょうか。僕は目の前で働き盛りの青年がチンタラ歩いているとイライラしてしまいます。年寄りや幼い子なら別ですがね。これって男女差別ですか(笑)

 歩くスピードが速い人は、仕事をバリバリやるイメージです。逆の人には活力を感じません。

 なんでもスピード感を持って対処することが肝要。先延ばしはよくありません。思い立ったが吉日。やれることはバンバンやっていく。それが僕の信条でもあります。

 惠理先生がこのところしきりに、風の時代に入りました。と言っていますね。昨年12月22日に「地の時代」から「風の時代」に入ったそうです。なんだかわからないけどスピード感を貴ぶ僕にはワクワクします。疾風怒濤です。

 そういえば最近、気になってる戦国武将の一人に武田信玄がいます。僕は記者時代、山梨支局にもいたので多少の縁はあります。4月から二重生活をする諏訪郡もかつては信玄が支配したこともあるので縁を感じます。

 信玄の軍旗に書かれていた「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略して言うのが風林火山。風があります。出所は「孫子」で、兵法のひとつだそうです。「疾きことのごとし」、「しずかなることのごとし」、「侵掠すること火のごとし」、「動かざること山のごとし」と読み下すのが一般的。

 動かざること山のごとし、は良く聞くと思います。僕はさらに「疾きことのごとし」が好きです。しかも漢字がいい。疾し! 気持ちいいですね。いかにも速そうです。

 なんでものんびりしていてはいけません。置いて行かれます。人に、時代に、宇宙に(笑) 惠理先生は早いですよ。やることなすこと。男前です。やはりできる人は早いんです。

 さあ乗り遅れないように、一気に進みましょう。素晴らしいユートピアに向かって。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

 

逆転があるから人生は面白い

 アンジャッシュの児嶋一哉に感心しました。

 朝の情報番組を観ていたら、ヨガ歴10年ということを知りました。人は見かけによりません。実践ではMC加藤浩次がヨレヨレになっている横で、呼吸は乱れず涼しい顔。加藤もしきりに感心していました。

 アンジャッシュといえば渡部建が不倫騒動でテレビから姿を消しています。コンビで活躍している時は、渡部が目立ち、単独でもグルメ王としてブレークしていました。

 児島は冴えない相方で、馬鹿にされるキャラでした。それが今や消えるどころかドラマにも出演し、あらゆる番組に引っ張りだこです。地味だった男の大逆転です。

 それで思い起こすのがピース。やはり綾部祐二がイケメンキャラで熟女殺しの話題もあって圧倒的な存在感を示していました。一方で又吉直樹は暗くてまったくの引き立て役でした。

 ところが芥川賞を受賞するという驚天動地の偉業を成し遂げ、こちらも大逆転。一躍、大先生となり、綾部はなぜかニューヨークへ単身で渡ってしまいました。今の様子はほとんど伝わってきません。

 この教訓はなんでしょう。地味でも誠実にコツコツやっていれば、いつか花開くことがある、という話でしょうか。

 でも本当にそう思います。自分を信じて、諦めずに、やるべきことをやり続ける。それでいいと思います。きっと、いいことがあります。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

いたるところで分断です

 「名前はなんて言うんだ」とコンビニの入り口から店内に向かって大きな声を出している年配男性がいました。ちょうど通り過ぎる時に店内を覗くと、きつい口調と表情で「マスクをしてないから」と手で追い払う仕草をしている男性店員がいました。

 どっちもどっちなのかな。マスクに効果があるのかどうかはさておき、みんながしている中ではやはりしていない方が不利。しかし店員の態度もまた極端だと思いました。

 朝のNHKニュースでは、防じんマスクをして患者にあいさつをした医師が解雇され、医療機関を訴えてい裁判で、さいたま地裁が解雇を不当とし、2000万円の支払いを命じたと報道していました。医療機関の言い分は、防じんマスクとゴム手袋をして患者の不安を引き起こした上、職場の秩序を乱し、甚大な被害を及ぼしたというものです。

 これもどっちもどっちという気がいたします。防じんマスクはちょっと行き過ぎじゃないかと思いますし、解雇しちゃうのもどうなかな、と感じます。

 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が「コロナがどういう形だろうと必ずやる」と発言したことに対し、世界のメディアは「とんちんかん」などと批判が相次いでいるという問題。

 森さんの、出たい人、見たい人の気持ちを慮る姿勢はわかりますが、やはり言い方が強すぎますよね。

 すべて、どちらも極端です。だから分断してしまうのではないでしょうか。

 米国のトランプ共和党とバイデン民主党の戦いから、分断という言葉がクローズアップされました。それは世界中、日本の片隅にまで広がっている感じです。世の中が、どんどんギスギスして行きます。寂しいですね。悲しいですね。どうしたらいいのでしょうか。

 コロナで何が起きているのか。誰が得をするのか。誰でも幸せに生きる権利がある。それを侵害することは許されない。ただいつの世も、悪人はいなくなりません。せめて自分は、そういう流れの中でも負けずに、人生を楽しんで行きたいと思います。一人でも多くそうあってほしい。では、また。ペレレイ、ペレレイ。

立春、そして言葉遊び、あー勘違い

 今年は2月2日が124年ぶりの節分で、3日が立春でした。

「りっしゅん」。美しい言葉、発音ですね。春が来る、そんな浮き浮きする高揚感があります。立夏、立春、立冬もありますが、立春がなんといっても一押しです。

 「春分の日」というのもあります。子供の頃、これを「新聞の日」と思っていました。その思いが、新聞記者への道を切り開きました、というのはもちろん嘘ですが。

 似ようなものがいっぱいありました。童謡「故郷(ふるさと)」の歌詞の中に「うさぎ 追いし かの山」が出てきます。これを「うさぎ美味し」と勘違いし、へー、うさぎは美味しいんだと思っていたこと。

 「たきび」の中には、「北風ぴーぷー」がありますが、けっこう長い間「北風ぴゅーぴゅー」と思い続けていました。本当の歌詞を知った時「ぴーぷーなんて擬音があるかい! 普通ぴゅーぴゅーだろうが」と一人突っ込んでいました。

 さらに。「どんぐりころころ」には「どんぐりころころ どんぶりこ」とあります。これを「ごんぐりころころ どんぐりこ」と思っていました。次に「お池にはまって さあ大変」という歌詞が続くので、理屈で言えばこれは「どんぶりこ」ですよね。僕の負けー(笑)

 向田邦子さんは日航機墜落事故で亡くなって、今年が没後40年。エッセイの中に「眠る杯」があります。「荒城の月」の「めぐる杯かげさして」を「眠る杯」と少女時代に勘違いしていた回想です。向田さんほどの語感、博識を持った人でも子供時代は同じなんだなと、思ったことがありました。

 成長するにつれ、言葉の語感やらリズムやら、言葉遊びが好きになりました。好きなリズムは「パルメジャーノ レッジャーノ」です。人にあだ名をつけて、惠理先生とひっそり呼び合ったりもしています。

 フランス語も美しいですが、日本語も大好きです。そして遊び心も大好きです。子供の頃は何でも遊びにしてしまうじゃないですか。言葉も同じです。成長しても僕はまったく変わらない。その気持ちはいつまでも持ち続けていたいな、と思います。

 遊び心。いいですね。ペレレイ、ペレレイ。では、また。

僕って何者ですかね? マジで

 自分のことを実は自分が一番分かっていないのではないか、なんて今更ながら思いました。青年期に考えることですわなぁ。

 小さい頃かな、録音された自分の声を初めて聴いた時、こんな声なんだと不思議な感覚を味わったことはありませんか。僕は違和感を感じました。顔の中で反響している声を内側で聴いているのと「差」があるのでしょう。

 写真写りがいいとか、悪いとか自分で思うのも同じような側面があるのかもしれません。他人から見れば、お前はそう言うけど、その写真は立派にお前だよと思いませんか。

 発展させて外見以外のことにも通じるかもしれません。妻や友人にバッサリと痛いところを指摘されると、僕の場合は冷静さを一瞬にして失い、激高してしまうわけです。

 鏡で見る自分と他人が見ている僕は違う。そういう一歩引いた理解ができるなら、無用な喧嘩がなくなるのかもしれないと、124年ぶりの2月2日の節分に思い至った次第です。

 他人の僕についての言及、それを冷静に受け止めてみる。他人が理解している自分と自分が勝手に思い描いている理想の自画像の間には大きな溝がある(怖っ)そう思えるようになりました。62歳にもなって。あー青臭っ。でも、ま、いいか。気づいた時、決して遅いということもなかろう。何しろまだ人生の半分なのだから(笑)

 では、また。ペレレイ、ペレレイ。惠理先生のペレレイヒーリングを受けて本当の自分を見っけてね!

イケメンとは何ぞや

 昔はハンサムとか言っていましたが、現代のイケメンはそれとはニュアンスが違うんでしょうね。美男子とも違うのでしょうか。

 新聞記者の現役時代、プロ野球選手を取材していました。いつ頃からでしょうか。うちの出版社から出している雑誌でもイケメン人気ランキングのような企画が流行り始めたのは。

 どちらが先か分かりませんが、カープ女子のような女性野球ファンが増えて行ったことは喜ばしい限り。しかし、リストアップされている人たちを見て、ちょっと待てよ、と思わざるを得ない選手が結構いるわけです。

 なんでしょう。雰囲気イケメンでしょうか。スタイル、服装、物腰すべてのトータルでイケメンというようです。僕は、顔立ちだけで判断するものと考えていたので、かなり抵抗感がありました。今でもありますが…。

 具体名を出すと好みの問題である上に、無意味な反感を招くのも本意ではないので伏せますが、俳優でもそうです。その人たちは昔の定義で言えば、性格俳優だろうと思うしかないような顔立ちでも、簡単にイケメンのカテゴリーに入っている。ずいぶんハードルが低いなと感じます。

 写真部のデスクをしていた頃、人物写真を撮るのが抜群にうまい部員がいました。動いている写真は誰が撮っても意外と迫力がある。タイミングさえ合えば、ですが。ところが動いていない人や物に命を吹き込むのは難しい。例えば、野球の様に動いてきたボールを打つのは難しい反面、当たると実は飛ぶ。ところが止まっているボールを遠くに飛ばすゴルフは簡単そうで本当は難しいのと似ています。

 その部員がジャニーズの滝沢秀明の若かりし頃、「あんなに綺麗な人を撮ったことありません」と言いました。男に対して「綺麗な人」ですよ。女性を称える表現ですが、僕は納得できました。

 時代が変わったといえばそれまでですが、女性に関して言えば、性格女優を美人とは表現していないように思います。やはり誰もが認める美形のみに最大の称号を与えているように思います。

 違うのかな。男性は評価が甘くて女性には厳しいと僕には思える。不公平です。何でだろう。女性の社会進出が進んでいますが、実は最後の関門に「見た目」の評価があるとしたら、まだまだ開かれていないかもしれませんね。

 でも惠理先生のヒーリングを受けると、内面から美しく変化するので、まったく違う「美人」に生まれ変わります。受ける前と後を何人も見てきましたが、不思議なほどです。ぜひ、どうぞ。ペレレイ、ペレレイ。では、また。

新発見! 美人の見分け方

 なかなか刺激的なタイトルでしょ。ほぼ全員がマスクをするようになって、分かったことがあります。

 「あ、この人は美人だな」と思って見ていたら、マスクを外した瞬間に、拍子抜け! ということが何回かありました。美人の条件は「目」にあると思っていたのですが、どうやら認識を変えないといけないようです。

 実は顔のド真ん中に鎮座まします、お鼻さん。そして口元が意外とポイントゲッターだったんですね。いくら眉目秀麗でもマスクを取った途端、団子っぱながデーンと現れたり、口元がだらしなかったりすると、もういけません。失礼。

 ただし、まだ例外に遭遇はしていませんが、逆は違うかもしれません。つまり、この人は残念ながらおブスちゃんだな、と思っていたらマスクを外して見ると超美人だったというケース。鼻筋通って、色気の溢れた唇が揃ってお出ましになったとして、目が小さかったり細かったりしたら、やはり逆転は難しいかもしれません。

 美人を例に出しましたが、たぶん男にも言えるかと思います。あまり顔のことについて触れるのは、心根をないがしろにした上滑りの野郎かと思われるかもしれませんが、それでも顔つきは大事だと思います。第一印象しかり。大人になったら、顔は自分で作るもの、ということしかり。親から授かった造作が少々残念でも、素敵に見えるようになるもんですから。

 つまり半分、片側、だけを見て全体を見誤るな、ということでしょうか。すべてを見ないと判断できない。ちゃんと全体像を見て考えましょう、ということでしょうかね。

 顔の流れついでに、イケメンについての愚考を次回触れてみようかなと思います。

 あ、ひとつおもしろいことがあります。惠理先生のヒーリングを受けるとビフォア・アフターで顔つき・表情が激変します。美しくなります。何ででしょう。まとわりついている不純物がはがれるからかな。リフトアップするんです。エネルギーによる美顔ですね。ぜひ、どうぞ。では、また。ペレレイ、ペレレイ。